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涼宮ハルヒの憂鬱 笹の葉ラプソディ 〜待ち人や カササギとして ここにいる〜
中学一年生時の涼宮ハルヒや大人バージョンの朝比奈みくるが絵的な容姿にしても、(声優のある種の記号としての演技による)声の音程にしても、成長度合いの違いによって「今」と比べて変化しているのに対して、長門有希は「今」も「三年前」もまったく変化がないということ……そんなふうに『笹の葉ラプソディ』のアニメ版は、原作の小説よりも長門有希の「変わらなさ」というものがより強調されているように思います。
それは『笹の葉ラプソディ』での長門有希の初ゼリフが「三年前」における短冊の文字を指でなぞった後の「理解した」であるということにも表われていて、そのBパートの中盤での第一声は長門有希が生まれて初めて言葉を発した「産声」としての演出意図なのではないでしょうか。
長門有希は生まれたときからずっと変わらない存在であることの強調です。
だからこそ、「三年前」の長門有希が長門有希であることを証明するためにキョンに対して眼鏡を外してみせたことの意味の重みを強く感じます。
「三年後」の長門有希がキョンによって変わったことの証明。
「三年後」の長門有希がキョンによって変えさせられたことの証明。
眼鏡を外す、というキョンにしかわからない自己証明の行為に長門有希のいろんな思いが込められているように思うと切なくなってきます。
そして「三年後」に変わったことといえば、長門有希がキョンに対して改めて手渡した短冊に対しても言えます。
その短冊が「三年前」とは違い少しだけくたびれていたのは、長門有希が三年間ずっと肌身離さずに持ち続けていたことによる変化なのではないでしょうか。
短冊に書かれてある文字の「私はここにいる」という思いと共にずっと持ち続けていたことによる変化であると……。
それは『笹の葉ラプソディ』での長門有希の初ゼリフが「三年前」における短冊の文字を指でなぞった後の「理解した」であるということにも表われていて、そのBパートの中盤での第一声は長門有希が生まれて初めて言葉を発した「産声」としての演出意図なのではないでしょうか。
長門有希は生まれたときからずっと変わらない存在であることの強調です。
だからこそ、「三年前」の長門有希が長門有希であることを証明するためにキョンに対して眼鏡を外してみせたことの意味の重みを強く感じます。
「三年後」の長門有希がキョンによって変わったことの証明。
「三年後」の長門有希がキョンによって変えさせられたことの証明。
眼鏡を外す、というキョンにしかわからない自己証明の行為に長門有希のいろんな思いが込められているように思うと切なくなってきます。
そして「三年後」に変わったことといえば、長門有希がキョンに対して改めて手渡した短冊に対しても言えます。
その短冊が「三年前」とは違い少しだけくたびれていたのは、長門有希が三年間ずっと肌身離さずに持ち続けていたことによる変化なのではないでしょうか。
短冊に書かれてある文字の「私はここにいる」という思いと共にずっと持ち続けていたことによる変化であると……。
放課後ウインド・オーケストラ(宇佐悠一郎) 〜オとツとパとイのおとがーでなーい〜
おっぱ……容姿の造形的にも奥ゆかしい性格的にも『放課後ウインド・オーケストラ』の真のヒロインは桜井千砂であるにもかかわらず、ストーリーの本筋に全く絡むことなく作品が終わってしまったのは一体なぜなのでしょうか?
たしかに主人公の平音佳敏は影響を受けて吹奏楽部&トランペットを始めたようにメインヒロインの藤本鈴菜に夢中です。またアルトサックスの長谷部唯やクラリネットの小宮山智恵やパーカッションの松田梓といった女の子達も前面に押し出されています。
しかしどうしても惹かれてしまうのは彼女達の後ろにいるチューバの桜井千砂なのです。その小さな身体に反比例した大きなおっぱ……楽器を抱えた姿なのです。
炎天下での野球の応援時にブラジャ……水分補給を忘れて右往左往する桜井千砂など、描けることはまだまだあったはずです。
それにしてもあれだけ大きなおっぱ……楽器だと肩がこってこってしょうがないでしょうね。
そんな桜井千砂の姿を見ているとそのおっぱ……肩を揉んであげたい、揉みほぐしてあげたい、揉みしだいてあげたいという衝動がこみあげてくるのはしょうがありません……ええ、完全に善意です。
でも、私には揉めないっ!!
桜井千砂のコリをほぐすことも、コリコリになった敏感な部位をコリコリすることもできないっ!!
二次元と三次元の間には大いなる断絶があるのです。揉んだうえにチューバチューバすることなんて夢のまた夢です。
だからこの桜井千砂に対するほとばしるセクシャルハラスメン……善意のパッションは平音佳敏に託すしかなかったのであります。吸って吸って吸いまく……吹いて吹いて吹きまくるトランペットとチューバのセッションを見てみたかったのであります。
ですが桜井千砂と平音佳敏は会話を交わす事すらあまりありませんでしたからね……。
あばず……あばず……あばずれ臭漂う長谷部唯の当番回を描くのなら、桜井千砂の出番をもっと増やして欲しかったです。
登場した時にその回のテーマらしいことを一言二言話すだけのキャラクターで終わってしまったのはもったいなかったように思います。
それともそのテーマの代弁者的な役割からすると、桜井千砂を出し惜しみしている間に作品が終わってしまったということなのでしょうか?
たしかに第3話での演奏シーンは演奏の状況とコマ割とのシンクロのさせ方が非常に練られていて、作者の描きたかったことの片鱗が見て取れる素晴らしい出来だったと思います。
しかし「マンガはキャラクターがすべて」という言葉に則ると、スポットライトが当たるキャラクターが次々と変わる群像劇色の強いマンガの中で、ストーリーの本筋に絡んでこない桜井千砂を超える魅力を持った他のキャラクターが現われなかったのが作品の寿命を縮める大きな原因になったように思います。
魅力的なキャラクターを出し惜しみしてはいけないのだと痛烈に感じます。
もっと出していくべきなのです。
主張するべきなのです。
振り返ってみると桜井千砂は合宿での露天風呂で「のぼせちゃった」と言いながら湯船に顔までどっぷりとつかっていたり、さんざん伏線を張っていた海水浴での水着姿が立ち消えになっていたりしましたが、桜井千砂だからこそ躍動できる、桜井千砂だからこそ主張できる、桜井千砂だけしか持っていないモノを最大限に発揮できる場をもっと与えて欲しかったと強烈に願わずにはいられないのでありまおっぱい。
たしかに主人公の平音佳敏は影響を受けて吹奏楽部&トランペットを始めたようにメインヒロインの藤本鈴菜に夢中です。またアルトサックスの長谷部唯やクラリネットの小宮山智恵やパーカッションの松田梓といった女の子達も前面に押し出されています。
しかしどうしても惹かれてしまうのは彼女達の後ろにいるチューバの桜井千砂なのです。その小さな身体に反比例した大きなおっぱ……楽器を抱えた姿なのです。
炎天下での野球の応援時にブラジャ……水分補給を忘れて右往左往する桜井千砂など、描けることはまだまだあったはずです。
それにしてもあれだけ大きなおっぱ……楽器だと肩がこってこってしょうがないでしょうね。
そんな桜井千砂の姿を見ているとそのおっぱ……肩を揉んであげたい、揉みほぐしてあげたい、揉みしだいてあげたいという衝動がこみあげてくるのはしょうがありません……ええ、完全に善意です。
でも、私には揉めないっ!!
桜井千砂のコリをほぐすことも、コリコリになった敏感な部位をコリコリすることもできないっ!!
二次元と三次元の間には大いなる断絶があるのです。揉んだうえにチューバチューバすることなんて夢のまた夢です。
だからこの桜井千砂に対するほとばしるセクシャルハラスメン……善意のパッションは平音佳敏に託すしかなかったのであります。吸って吸って吸いまく……吹いて吹いて吹きまくるトランペットとチューバのセッションを見てみたかったのであります。
ですが桜井千砂と平音佳敏は会話を交わす事すらあまりありませんでしたからね……。
あばず……あばず……あばずれ臭漂う長谷部唯の当番回を描くのなら、桜井千砂の出番をもっと増やして欲しかったです。
登場した時にその回のテーマらしいことを一言二言話すだけのキャラクターで終わってしまったのはもったいなかったように思います。
それともそのテーマの代弁者的な役割からすると、桜井千砂を出し惜しみしている間に作品が終わってしまったということなのでしょうか?
たしかに第3話での演奏シーンは演奏の状況とコマ割とのシンクロのさせ方が非常に練られていて、作者の描きたかったことの片鱗が見て取れる素晴らしい出来だったと思います。
しかし「マンガはキャラクターがすべて」という言葉に則ると、スポットライトが当たるキャラクターが次々と変わる群像劇色の強いマンガの中で、ストーリーの本筋に絡んでこない桜井千砂を超える魅力を持った他のキャラクターが現われなかったのが作品の寿命を縮める大きな原因になったように思います。
魅力的なキャラクターを出し惜しみしてはいけないのだと痛烈に感じます。
もっと出していくべきなのです。
主張するべきなのです。
振り返ってみると桜井千砂は合宿での露天風呂で「のぼせちゃった」と言いながら湯船に顔までどっぷりとつかっていたり、さんざん伏線を張っていた海水浴での水着姿が立ち消えになっていたりしましたが、桜井千砂だからこそ躍動できる、桜井千砂だからこそ主張できる、桜井千砂だけしか持っていないモノを最大限に発揮できる場をもっと与えて欲しかったと強烈に願わずにはいられないのでありまおっぱい。
神のみぞ知るセカイ 第四巻 〜雨傘という名のATフィールド〜
桂木桂馬が恋愛によって女の子の「心のスキマ」に巣食う『駆け魂』を追い出す過程は、複雑怪奇な乙女心に隠されている『本心』を探っていくことなのかもしれません。
『神のみぞ知るセカイ』第四巻において『駆け魂』の攻略ヒロインとして登場するのは二人ずついたそれまでの巻とは違い、小阪ちひろ一人だけです。
読者からの支持が得られないと打ち切りになってしまう週刊少年漫画において、地味でキャラクター性が乏しく美少女至上主義の観点からは外れている普通の女の子を一人だけフィーチャーすることは、多分に挑戦的で挑発的な布石のように思います。
同じ巻にキャラクター性のはっきりしたかわいい女の子を攻略ヒロインとしてもう一人配したほうが、読者からの人気も得やすいはずです。
なぜ作者の若木民喜さんが第四巻でわざわざ他の巻よりも女の子の攻略と攻略の間のインターバルの回である『痛回』を多めに取る構成にしてまで、小阪ちひろ一人だけを攻略ヒロインに据えたのかを考えてみると、「地味な女の子」に対する特別な思い入れからなのかもしれません。
同じ巻にかわいい女の子を配すると地味でキャラクター性の乏しい小阪ちひろの存在がますます薄くなってしまう、そのことを避けたかったのではないでしょうか。
また、それは作中で語られている「ただ、いいヒロイン」という言葉を実現させるためでもあるのかもしれません。
そしてそんな作者の「地味な女の子」に対する特別な思い入れというものは、作中で小阪ちひろが見せる『本心』に最も表わされているように思います。
『FLAG.32:Singing in the Rain』では、小阪ちひろの『本心』に桂馬が踏み込んでいく流れが絶妙に表現されています。
『雨傘』と『船』とがちひろと桂馬の心の距離を表わす「見立て」として描かれていて、そのキャラクターの状況と心情とによる表現の多重構造が、雨の中、船上で追いつ追われつの駆け引きをしている2人の関係性に奥行きを与えているのです。
小阪ちひろが持っている『雨傘』は、作者の意図によって「ATフィールド」に見立てられた模様からもわかるように、ちひろの『心の壁』として表現されています。
傘を開く、傘を閉じる、傘を盾のように前に広げる、傘に隠れて本音を洩らす、相合傘をする……というように雨傘の使い方の変化でちひろの桂馬に対する心境の移り変わりが描かれていて、雨傘の動きと台詞の意味とが複雑に絡み合うことによって、微妙に揺れ動く乙女心の変遷が表現されていることが素晴らしいと思います。
そしてそんな二人の関係性の大きな転換点になっているのが、100ページ4コマ目での心象風景として描かれている「桂馬を載せた船がマストに帆を張って港を離れていく」1コマです。
ギャグっぽく描かれているその1コマは、おそらく『FLAG.32』での一番の要となっている絵であると思います。
その1コマだけで二人の追いかけっこの主導権が完全に桂馬の側に移ったことが表わされていると同時に、『船のマストに張られた帆』が桂馬の『心の壁』の見立てとして描かれていて、作中における『船(のマスト)』と『雨傘』とが『心の壁』としてシンクロしていることも示されているからです。
つまり『FLAG.32』の冒頭で、「マストに帆が張られていない船」の上で小阪ちひろが一人でたたずんでいるところに桂馬がやってきたことは、その時点ですでにちひろの心は桂馬のことを受け入れていたということの表われなのです。
そして『船』が小阪ちひろの『乙女心』を表わしていることは、桂馬とちひろの追いかけっこの終着点である、船に据え付けられていた救命ボートの『小舟』の持つ意味につながっています。
おそらくその『小舟』は小阪ちひろの心の核の部分である『本心』を表わしているのだと思います。
そしてその『本心』で小阪ちひろが語った「私がやる気になったからって中川かのんちゃんみたいなアイドルになれると思う!?」という言葉が、ちひろに「心のスキマ」が生まれた原因を表しているのではないでしょうか。
それは「中川かのんのようなアイドルになりたい」というようなことではなく、おそらく中川かのんに対する劣等感の告白なのだと思います。
単行本第二巻43ページ3コマ目での、中川かのんによる自分が「透明」だった頃を思い出している回想シーンの中にクラスメイトの女の子が登場していますが、マンガの記号的表現として同じところにヘアピンをしていることから、その女の子はおそらく小阪ちひろです。
小阪ちひろは自分と同じようにあるいは自分よりも地味で目立たなかった中川かのんが一歩一歩スターへの階段を駆け上り、光り輝く存在になっていく姿をずっと見てきたのではないでしょうか。
自分には手の届かない存在になってしまった中川かのんと、いつまでも地味なままの自分との落差に対する虚無感から「心のスキマ」が生まれ、それを埋めるために好きでもない男たちへの告白を繰り返していたのだと思います。
小阪ちひろは「アイドルになることのできなかったもう一人の中川かのん」の姿だと言えるのではないでしょうか。
そして小阪ちひろの『本心』で中川かのんの名前が挙げられていることに、作者の「地味な女の子」に対する特別な思い入れを見て取ることができます。
中川かのんの人物像は、地味で、自分のことを「ゴミ」と呼称していて、アイドルとしてステージに立つ時には眼鏡を外して変身するというものです。
そのことから中川かのんは作者の前作『聖結晶アルバトロス』のヒロインであるアルバトロス(朝倉さくら)のスターシステム的なキャラクターであると捉えることが出来ます。
『週刊少年サンデーまんが家バックステージ』で語られているアルバトロス誕生秘話(http://websunday.net/backstage/wakaki41.html)によると、地味でケガばかりしていたミスド店員の女の子をモデルにしてアルバトロス(朝倉さくら)を作ったそうですが、打ち切りになってしまった作品では描ききれなかったその女の子に対する思いをアルバトロスのスターシステム的なキャラクターである中川かのんにも込めているのだと思います。
そして「地味な女の子」であり、「アイドルになることのできなかったもう一人の中川かのん」である小阪ちひろにも、その思いは託されているのではないでしょうか。
そんな作者の思い入れが内容として昇華されている『FLAG.32:Singing in the Rain』での、小阪ちひろが船の上でたたずんでいる姿から桂馬がちひろの本心に踏み込んでいくまでの13ページ間は、珠玉の出来と言えます。
複雑怪奇な乙女心を『雨傘』と『船』とによる多重構造の見立てによって表現し、桂馬とちひろの心の移り変わりを一つ一つたどって行く、そして桂馬がちひろの『本心』に踏み込んで心のスキマが埋まったと同時に雨が止み桂馬の背中越しに後光のように日が差してくるという、女の子を恋に落とすために天気すらも味方につける桂馬の神性までもが表現されている流れは、美しさに満ちています。
作者が小阪ちひろのことを、中川かのんの時のように「ファンの声援の後押しによって『心のスキマ』が埋まる」といった劇的な物語として描かなかったのは、地味でキャラクター性の乏しい普通の女の子だからこそ普通のシチュエーションの中で輝きを与えたかったからなのかもしれません。
ただ、キャラクターへの作者の思い入れの強さと読者の受け取り方の強さはシンクロするわけではないので、作中で語られていた「ただ、いいヒロイン」という言葉を実現することはかなり難しいハードルだと思います。
私にとっても、綾波レイや長門有希や石動乃絵に匹敵するようなヒロインにはなかなか出会えませんし(『神のみぞ知るセカイ』がアニメ化する際にはぜひ石動乃絵役だった高垣彩陽さんに桂馬役の声をお願いします……エルシィ役じゃないところがポイントです)。
むむ、綾波レイ・長門有希・石動乃絵と並べてみると、なんだか『ショートカット貧乳少女』ばかりに惹かれているような気もしますが、そんな外見上の容姿に囚われているわけでは決してありません(そういえば小坂ちひろもショートカット貧乳少女ですね)。
いとうのいぢさんの描く長門有希に萌えているわけではなく、小説の文章からにじみ出る長門有希の微細な感情の揺れに惹かれているわけですからね。
しかし、マンガの場合やはり絵に対する意識というものが大きいのかもしれません。
絵柄の好き嫌いでそのマンガを読むか読まないか自体を判断することがありますし、同じ作家の同じ作品でも絵柄が変わるとゲンナリすることもありますからね。
また「顔がかわいい・おっぱいが大きい・パンツがチラリする」という視覚的オカズ三大要素にどうしようもなく目がいってしまうということも往々にしてあることです……男ってしょうもない生き物ですし、女だって「恋とイケメンは別腹」みたいなところがありますし。
だから「顔が普通・おっぱいが普通・普通にパンチラしない」という普通の女の子である小阪ちひろは、第四巻のあとがきでもふれられているように読者からの絶大な支持を得ることは難しいと思います。
「ただ、いいヒロイン」として認知されにくい、と言えるのです。
その小阪ちひろに対する反応が『落とし神』である桂馬と違うところで、たぶん桂馬は世の中のどの女性に対しても平等で、容姿で人を判断することは無いのだと思います。
もちろん『ギャルゲーの女の子』対『その他大勢の現実女』という現実を見下した上での平等ですから、かなりの問題はあります。
しかしそんな人を見た目で判断しない桂馬だからこそ、それまで攻略してきたかわいい女の子達に対してと同じ熱量でもって普通の女の子である小阪ちひろと向かい合っていたわけで、そこに桂馬のことを「オタメガ」と罵倒してきたことが吹き飛んでしまうほどの小阪ちひろの「恋の落ち様」に対する説得力があり、私の小阪ちひろに対しての感情の中に罪悪感と呼べるものが混じってしまうのです。
関連記事:
神のみぞ知るセカイ(若木民喜)第一巻/知恵の実という名の発火点
神のみぞ知るセカイ 〜ギャルゲーという名のエデン〜
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同じ巻にキャラクター性のはっきりしたかわいい女の子を攻略ヒロインとしてもう一人配したほうが、読者からの人気も得やすいはずです。
なぜ作者の若木民喜さんが第四巻でわざわざ他の巻よりも女の子の攻略と攻略の間のインターバルの回である『痛回』を多めに取る構成にしてまで、小阪ちひろ一人だけを攻略ヒロインに据えたのかを考えてみると、「地味な女の子」に対する特別な思い入れからなのかもしれません。
同じ巻にかわいい女の子を配すると地味でキャラクター性の乏しい小阪ちひろの存在がますます薄くなってしまう、そのことを避けたかったのではないでしょうか。
また、それは作中で語られている「ただ、いいヒロイン」という言葉を実現させるためでもあるのかもしれません。
そしてそんな作者の「地味な女の子」に対する特別な思い入れというものは、作中で小阪ちひろが見せる『本心』に最も表わされているように思います。
『FLAG.32:Singing in the Rain』では、小阪ちひろの『本心』に桂馬が踏み込んでいく流れが絶妙に表現されています。
『雨傘』と『船』とがちひろと桂馬の心の距離を表わす「見立て」として描かれていて、そのキャラクターの状況と心情とによる表現の多重構造が、雨の中、船上で追いつ追われつの駆け引きをしている2人の関係性に奥行きを与えているのです。
小阪ちひろが持っている『雨傘』は、作者の意図によって「ATフィールド」に見立てられた模様からもわかるように、ちひろの『心の壁』として表現されています。
傘を開く、傘を閉じる、傘を盾のように前に広げる、傘に隠れて本音を洩らす、相合傘をする……というように雨傘の使い方の変化でちひろの桂馬に対する心境の移り変わりが描かれていて、雨傘の動きと台詞の意味とが複雑に絡み合うことによって、微妙に揺れ動く乙女心の変遷が表現されていることが素晴らしいと思います。
そしてそんな二人の関係性の大きな転換点になっているのが、100ページ4コマ目での心象風景として描かれている「桂馬を載せた船がマストに帆を張って港を離れていく」1コマです。
ギャグっぽく描かれているその1コマは、おそらく『FLAG.32』での一番の要となっている絵であると思います。
その1コマだけで二人の追いかけっこの主導権が完全に桂馬の側に移ったことが表わされていると同時に、『船のマストに張られた帆』が桂馬の『心の壁』の見立てとして描かれていて、作中における『船(のマスト)』と『雨傘』とが『心の壁』としてシンクロしていることも示されているからです。
つまり『FLAG.32』の冒頭で、「マストに帆が張られていない船」の上で小阪ちひろが一人でたたずんでいるところに桂馬がやってきたことは、その時点ですでにちひろの心は桂馬のことを受け入れていたということの表われなのです。
そして『船』が小阪ちひろの『乙女心』を表わしていることは、桂馬とちひろの追いかけっこの終着点である、船に据え付けられていた救命ボートの『小舟』の持つ意味につながっています。
おそらくその『小舟』は小阪ちひろの心の核の部分である『本心』を表わしているのだと思います。
そしてその『本心』で小阪ちひろが語った「私がやる気になったからって中川かのんちゃんみたいなアイドルになれると思う!?」という言葉が、ちひろに「心のスキマ」が生まれた原因を表しているのではないでしょうか。
それは「中川かのんのようなアイドルになりたい」というようなことではなく、おそらく中川かのんに対する劣等感の告白なのだと思います。
単行本第二巻43ページ3コマ目での、中川かのんによる自分が「透明」だった頃を思い出している回想シーンの中にクラスメイトの女の子が登場していますが、マンガの記号的表現として同じところにヘアピンをしていることから、その女の子はおそらく小阪ちひろです。
小阪ちひろは自分と同じようにあるいは自分よりも地味で目立たなかった中川かのんが一歩一歩スターへの階段を駆け上り、光り輝く存在になっていく姿をずっと見てきたのではないでしょうか。
自分には手の届かない存在になってしまった中川かのんと、いつまでも地味なままの自分との落差に対する虚無感から「心のスキマ」が生まれ、それを埋めるために好きでもない男たちへの告白を繰り返していたのだと思います。
小阪ちひろは「アイドルになることのできなかったもう一人の中川かのん」の姿だと言えるのではないでしょうか。
そして小阪ちひろの『本心』で中川かのんの名前が挙げられていることに、作者の「地味な女の子」に対する特別な思い入れを見て取ることができます。
中川かのんの人物像は、地味で、自分のことを「ゴミ」と呼称していて、アイドルとしてステージに立つ時には眼鏡を外して変身するというものです。
そのことから中川かのんは作者の前作『聖結晶アルバトロス』のヒロインであるアルバトロス(朝倉さくら)のスターシステム的なキャラクターであると捉えることが出来ます。
『週刊少年サンデーまんが家バックステージ』で語られているアルバトロス誕生秘話(http://websunday.net/backstage/wakaki41.html)によると、地味でケガばかりしていたミスド店員の女の子をモデルにしてアルバトロス(朝倉さくら)を作ったそうですが、打ち切りになってしまった作品では描ききれなかったその女の子に対する思いをアルバトロスのスターシステム的なキャラクターである中川かのんにも込めているのだと思います。
そして「地味な女の子」であり、「アイドルになることのできなかったもう一人の中川かのん」である小阪ちひろにも、その思いは託されているのではないでしょうか。
そんな作者の思い入れが内容として昇華されている『FLAG.32:Singing in the Rain』での、小阪ちひろが船の上でたたずんでいる姿から桂馬がちひろの本心に踏み込んでいくまでの13ページ間は、珠玉の出来と言えます。
複雑怪奇な乙女心を『雨傘』と『船』とによる多重構造の見立てによって表現し、桂馬とちひろの心の移り変わりを一つ一つたどって行く、そして桂馬がちひろの『本心』に踏み込んで心のスキマが埋まったと同時に雨が止み桂馬の背中越しに後光のように日が差してくるという、女の子を恋に落とすために天気すらも味方につける桂馬の神性までもが表現されている流れは、美しさに満ちています。
作者が小阪ちひろのことを、中川かのんの時のように「ファンの声援の後押しによって『心のスキマ』が埋まる」といった劇的な物語として描かなかったのは、地味でキャラクター性の乏しい普通の女の子だからこそ普通のシチュエーションの中で輝きを与えたかったからなのかもしれません。
ただ、キャラクターへの作者の思い入れの強さと読者の受け取り方の強さはシンクロするわけではないので、作中で語られていた「ただ、いいヒロイン」という言葉を実現することはかなり難しいハードルだと思います。
私にとっても、綾波レイや長門有希や石動乃絵に匹敵するようなヒロインにはなかなか出会えませんし(『神のみぞ知るセカイ』がアニメ化する際にはぜひ石動乃絵役だった高垣彩陽さんに桂馬役の声をお願いします……エルシィ役じゃないところがポイントです)。
むむ、綾波レイ・長門有希・石動乃絵と並べてみると、なんだか『ショートカット貧乳少女』ばかりに惹かれているような気もしますが、そんな外見上の容姿に囚われているわけでは決してありません(そういえば小坂ちひろもショートカット貧乳少女ですね)。
いとうのいぢさんの描く長門有希に萌えているわけではなく、小説の文章からにじみ出る長門有希の微細な感情の揺れに惹かれているわけですからね。
しかし、マンガの場合やはり絵に対する意識というものが大きいのかもしれません。
絵柄の好き嫌いでそのマンガを読むか読まないか自体を判断することがありますし、同じ作家の同じ作品でも絵柄が変わるとゲンナリすることもありますからね。
また「顔がかわいい・おっぱいが大きい・パンツがチラリする」という視覚的オカズ三大要素にどうしようもなく目がいってしまうということも往々にしてあることです……男ってしょうもない生き物ですし、女だって「恋とイケメンは別腹」みたいなところがありますし。
だから「顔が普通・おっぱいが普通・普通にパンチラしない」という普通の女の子である小阪ちひろは、第四巻のあとがきでもふれられているように読者からの絶大な支持を得ることは難しいと思います。
「ただ、いいヒロイン」として認知されにくい、と言えるのです。
その小阪ちひろに対する反応が『落とし神』である桂馬と違うところで、たぶん桂馬は世の中のどの女性に対しても平等で、容姿で人を判断することは無いのだと思います。
もちろん『ギャルゲーの女の子』対『その他大勢の現実女』という現実を見下した上での平等ですから、かなりの問題はあります。
しかしそんな人を見た目で判断しない桂馬だからこそ、それまで攻略してきたかわいい女の子達に対してと同じ熱量でもって普通の女の子である小阪ちひろと向かい合っていたわけで、そこに桂馬のことを「オタメガ」と罵倒してきたことが吹き飛んでしまうほどの小阪ちひろの「恋の落ち様」に対する説得力があり、私の小阪ちひろに対しての感情の中に罪悪感と呼べるものが混じってしまうのです。
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