劇場版「涼宮ハルヒの消失」 ─せめて、宇宙人らしく─
たとえば『ライブアライブ』
文化祭という非日常での主観と客観のめまぐるしい入れ替わりをイマジナリーラインを超える演出を使って日常へとスライドさせてキョンが初めて舞台に上がった様を描くという、物語の内容と映像の演出方法との見事なシンクロによって少年の小さくて大きな成長が描かれていた。
たとえば『サムデイインザレイン』
キョンに対して、朝比奈みくる→マフラー、鶴屋さん→ハンカチ、涼宮ハルヒ→上書きするための二枚目のカーディガン、と女の子たちが次々と寒さを和らげるための布をかけていくという「法則」が、キョンにかけられていた一枚目のカーディガンの持ち主が長門有希であることを指し示していて、その「見てはもらえない女」のやさしさを儚く浮かび上がらせていた。
テレビシリーズの『涼宮ハルヒの憂鬱』には意味があった、作り手の意図を見出すことができた。
しかし、劇場版『涼宮ハルヒの消失』では原作から汲み取ることが出来たはずの「意味」が消失しているように思う。
「宇宙人」として生み出されてから(繰り返された夏休みを含めて)約600年間キョンのことを観察し続けてきた長門有希が自らの希望をかなえるために作りだした「改変世界」。
なぜ「改変世界」でのキョンと長門有希との二人きりの無言の下校風景が描かれていないのだろう。
その「無言」の中にあるかけひきは、映画として、アニメとして、『涼宮ハルヒの消失』として、絵で描いておかなければならない、画で押さえておかなければならない、重要な場面なのではないだろうか。
なぜ「改変世界」が消失したあと、長門有希が入院中のキョンに自らの消失を告げに来た時、キョンは「ありがとう」の言葉を聞く前に握り締めた長門有希の手をいったん離してしまったのだろう。
その握り締めた手にこめた「どこにも行くな」というキョンの強い意思表示を途中で断ち切ってはいけないのではないだろうか。
その二つのシーンを改変してまで描きたかったこととは一体なんなのだろう?
映画では「来る? わたしの部屋」の台詞のあと、原作に描かれていた二人の無言の下校風景がカットされていて、すぐに場面が「長門有希の部屋」の中の画に切り替わっている。
「キョンが扉を開ける姿」が繰り返し登場し強調されている映画の中で、それが「長門有希が扉を開ける姿」への何の対比にもなっていないのはなぜだろう。
映画の冒頭や世界が改変された12月18日のシーンの始まりがキョンの一人称の視点から見た画で始まっている映画の中で、キョンが生まれて初めて足を踏み入れるはずの『鍵を開けてもいない普通の女の子の長門有希の部屋の中』を映しているその画は、一体誰の視点から見た映像なのだろう。
長門有希が作り出した「改変世界」とは、涼宮ハルヒが作り出した「閉鎖空間」と同一の「心の在りようが具現化した場所」なのだと思う。
「閉鎖空間」で涼宮ハルヒの無意識が生み出した「神人」が暴れていたように「改変世界」にいる「普通の女の子の長門有希」とは、長門有希が暴れている姿としての「神人」なのだと思う。
「閉鎖空間」にある「普通の女の子の長門有希の部屋」とは、「心の在りようが具現化した場所」の奥の奥の最深部にある長門有希の「本心」を表しているのだと思う。
だから「普通の女の子の長門有希の部屋」へと向かうキョンと長門有希との二人きりの下校風景は、暴走している長門有希だからこそ出来る、約600年間心の中に降り積もった雪の中を少ずつ少しずつ掻き分けながらキョンを自分の「本心」へと導いていく大切な儀式のように思えるのだ。
マンションの玄関の扉を開ける、エレベーターの扉を開ける、部屋の扉を開ける、そうして長門有希が幾重にも重なった「心の扉」を開いていく一つ一つの手順の延長線上に、ようやく「図書館で会ったことがある」という「本心」でしか言えない告白があり、帰ろうとしたキョンの袖を摘む「行かないで」という「本心」からの意思表示があり、キョンに対しての「本心」からのほほえみがあるのだと思う。
そして「普通の女の子の長門有希の部屋」という「本心」にこそ、長門有希が世界を改変してまで求めていた事の「答え」があるのではないだろうか。
キョンという男がいて、長門有希という女がいて、涼宮ハルヒという女が消失している世界にある「部屋」で長門有希が求めていたもの・・・・・・それはおそらくキョンの「体温」なのだと思う。
「ホワイトクリスマスに愛する人と『契り』を結びたい」という普通の女の子が見る夢、そのためにクリスマスに雪が降るように天候までも操作しようとしていたのではないだろうか。
だからこそ「普通の女の子の長門有希の部屋」へと向かう、キョンと長門有希との二人きりの無言の下校風景を消失させてはならないのだ。
その「本心」へと向かう無言の中にある恐れや期待や葛藤こそが「宇宙人」として生み出されたはずの長門有希が見せる最も「人間」らしい姿なのだから。
だからこそ長門有希が入院中のキョンに自らの消失を告げに来た時、キョンは「ありがとう」の言葉を聞く前に握り締めた長門有希の手を決して離してはいけないのだ。
いつもの無表情で、自分がもうすぐ消失することを淡々と話す、自分がもうすぐ死ぬことを淡々と話す、自分の悲しみをキョンに悟られないように、キョンが自分の死に悲しみを感じないように、自分の死がなんでもないことのようにふるまっている、「長門有希」という存在がキョンの目に「宇宙人」らしく映ろうとしている少女の万年雪のように凝り固まった「プライド」をとかすことが出来るのは、叶わなかった「有りえたかもしれない希望」のかけらとしての、「どこにも行くな」という熱意のこもったキョンの「体温」だけなのだから。
そしてそのつながれた手の温もりは「元の世界でもう一度長門有希のほほえみが見たい」というキョンの希望にもつながっているはずなのだから。
涼宮ハルヒの憂鬱#12:ライブアライブ/キョンと虚無とのイマジナリーライン
http://paraisoinheruno.blog58.fc2.com/blog-entry-9.html
文化祭という非日常での主観と客観のめまぐるしい入れ替わりをイマジナリーラインを超える演出を使って日常へとスライドさせてキョンが初めて舞台に上がった様を描くという、物語の内容と映像の演出方法との見事なシンクロによって少年の小さくて大きな成長が描かれていた。
たとえば『サムデイインザレイン』
キョンに対して、朝比奈みくる→マフラー、鶴屋さん→ハンカチ、涼宮ハルヒ→上書きするための二枚目のカーディガン、と女の子たちが次々と寒さを和らげるための布をかけていくという「法則」が、キョンにかけられていた一枚目のカーディガンの持ち主が長門有希であることを指し示していて、その「見てはもらえない女」のやさしさを儚く浮かび上がらせていた。
テレビシリーズの『涼宮ハルヒの憂鬱』には意味があった、作り手の意図を見出すことができた。
しかし、劇場版『涼宮ハルヒの消失』では原作から汲み取ることが出来たはずの「意味」が消失しているように思う。
「宇宙人」として生み出されてから(繰り返された夏休みを含めて)約600年間キョンのことを観察し続けてきた長門有希が自らの希望をかなえるために作りだした「改変世界」。
なぜ「改変世界」でのキョンと長門有希との二人きりの無言の下校風景が描かれていないのだろう。
その「無言」の中にあるかけひきは、映画として、アニメとして、『涼宮ハルヒの消失』として、絵で描いておかなければならない、画で押さえておかなければならない、重要な場面なのではないだろうか。
なぜ「改変世界」が消失したあと、長門有希が入院中のキョンに自らの消失を告げに来た時、キョンは「ありがとう」の言葉を聞く前に握り締めた長門有希の手をいったん離してしまったのだろう。
その握り締めた手にこめた「どこにも行くな」というキョンの強い意思表示を途中で断ち切ってはいけないのではないだろうか。
その二つのシーンを改変してまで描きたかったこととは一体なんなのだろう?
映画では「来る? わたしの部屋」の台詞のあと、原作に描かれていた二人の無言の下校風景がカットされていて、すぐに場面が「長門有希の部屋」の中の画に切り替わっている。
「キョンが扉を開ける姿」が繰り返し登場し強調されている映画の中で、それが「長門有希が扉を開ける姿」への何の対比にもなっていないのはなぜだろう。
映画の冒頭や世界が改変された12月18日のシーンの始まりがキョンの一人称の視点から見た画で始まっている映画の中で、キョンが生まれて初めて足を踏み入れるはずの『鍵を開けてもいない普通の女の子の長門有希の部屋の中』を映しているその画は、一体誰の視点から見た映像なのだろう。
長門有希が作り出した「改変世界」とは、涼宮ハルヒが作り出した「閉鎖空間」と同一の「心の在りようが具現化した場所」なのだと思う。
「閉鎖空間」で涼宮ハルヒの無意識が生み出した「神人」が暴れていたように「改変世界」にいる「普通の女の子の長門有希」とは、長門有希が暴れている姿としての「神人」なのだと思う。
「閉鎖空間」にある「普通の女の子の長門有希の部屋」とは、「心の在りようが具現化した場所」の奥の奥の最深部にある長門有希の「本心」を表しているのだと思う。
だから「普通の女の子の長門有希の部屋」へと向かうキョンと長門有希との二人きりの下校風景は、暴走している長門有希だからこそ出来る、約600年間心の中に降り積もった雪の中を少ずつ少しずつ掻き分けながらキョンを自分の「本心」へと導いていく大切な儀式のように思えるのだ。
マンションの玄関の扉を開ける、エレベーターの扉を開ける、部屋の扉を開ける、そうして長門有希が幾重にも重なった「心の扉」を開いていく一つ一つの手順の延長線上に、ようやく「図書館で会ったことがある」という「本心」でしか言えない告白があり、帰ろうとしたキョンの袖を摘む「行かないで」という「本心」からの意思表示があり、キョンに対しての「本心」からのほほえみがあるのだと思う。
そして「普通の女の子の長門有希の部屋」という「本心」にこそ、長門有希が世界を改変してまで求めていた事の「答え」があるのではないだろうか。
キョンという男がいて、長門有希という女がいて、涼宮ハルヒという女が消失している世界にある「部屋」で長門有希が求めていたもの・・・・・・それはおそらくキョンの「体温」なのだと思う。
雪に至る病 『涼宮ハルヒの消失』における長門有希がたった一人きりの文芸部員としての存在を夢見た理由
http://paraisoinheruno.blog58.fc2.com/blog-entry-20.html
「ホワイトクリスマスに愛する人と『契り』を結びたい」という普通の女の子が見る夢、そのためにクリスマスに雪が降るように天候までも操作しようとしていたのではないだろうか。
だからこそ「普通の女の子の長門有希の部屋」へと向かう、キョンと長門有希との二人きりの無言の下校風景を消失させてはならないのだ。
その「本心」へと向かう無言の中にある恐れや期待や葛藤こそが「宇宙人」として生み出されたはずの長門有希が見せる最も「人間」らしい姿なのだから。
だからこそ長門有希が入院中のキョンに自らの消失を告げに来た時、キョンは「ありがとう」の言葉を聞く前に握り締めた長門有希の手を決して離してはいけないのだ。
いつもの無表情で、自分がもうすぐ消失することを淡々と話す、自分がもうすぐ死ぬことを淡々と話す、自分の悲しみをキョンに悟られないように、キョンが自分の死に悲しみを感じないように、自分の死がなんでもないことのようにふるまっている、「長門有希」という存在がキョンの目に「宇宙人」らしく映ろうとしている少女の万年雪のように凝り固まった「プライド」をとかすことが出来るのは、叶わなかった「有りえたかもしれない希望」のかけらとしての、「どこにも行くな」という熱意のこもったキョンの「体温」だけなのだから。
そしてそのつながれた手の温もりは「元の世界でもう一度長門有希のほほえみが見たい」というキョンの希望にもつながっているはずなのだから。
ハートキャッチプリキュア 〜史上最強のプリキュアが救う世界一不幸な美少女〜
「史上最強のプリキュア」とは花咲ふたばのことである。
『ハートキャッチプリキュア』最終話のエピローグで花咲家で「プリキュア」への変身アイテムを持っていた「プリキュア」の女の子は、花咲つぼみの「妹」の花咲ふたばである。
「無限プリキュア」となって愛で世界を救った花咲つぼみではなく、その「妹」の花咲ふたばこそが「史上最強のプリキュア」である。
なぜ花咲ふたばが「プリキュア」なのか?
なぜ花咲ふたばが「史上最強のプリキュア」なのか?
なぜ花咲ふたばが「史上最強のプリキュア」でなければいけないのか?
それは花咲ふたばが『おジャ魔女どれみナイショ#12:7人目の魔女見習い〜のんちゃんのないしょ〜』に登場した「魔女になりたい」という望みを叶えられないまま死んでしまった少女・和久のぞみの生まれ変わりとして描かれているからである。
……と、そう信じます。
断言は出来ません。
ただ信じることしか出来ません。
なぜならその前提として、花咲つぼみ・ふたば姉妹の祖父である「花咲空」という名前が、以前『のんちゃんのないしょ』について書いた文章への作り手からの返信ではないか、ということを踏まえる必要があるからです。
花咲「空」がすでに「死」んでしまっていてチェロを「響」かせて「奏」でていたというだけの、根拠とはとても呼べない弱々しい寄りどころによる前提です。
妄想だと言われても仕方の無い前提です。
電波だと笑われても仕方の無い前提です。
しかし、このブログ宛て、というようなそんな小さな意味ではなく、『おジャ魔女どれみ』と『ハートキャッチプリキュア』の世界をつなげるために「花咲空」という名前が必要だったのだと、そう信じます。
和久のぞみの身代わりに「そら」と「し」を引き受けさせるために「花咲空」という名前が必要だったのだと、そう信じます。
和久のぞみの生まれ変わりとして花咲ふたばを誕生させるために「花咲空」という名前が必要だったのだと、そう信じます。
和久のぞみの生まれ変わりとして花咲ふたばを存在させるために、花咲ふたばの声が和久のぞみと同じ川田妙子さんである必要があったのだと、そう信じます。
『おジャ魔女どれみ』では「魔女」にはなれなかった和久のぞみが『ハートキャッチプリキュア』で花咲ふたばとして「プリキュア」になることができたのだと、そう信じます。
和久のぞみという『世界一不幸な美少女』の魂は花咲ふたばという『史上最強のプリキュア』でしか救うことが出来なかったのだと、そう信じるのです。
なぜ「無限プリキュア」となってデューンの魔の手から世界を砂漠化の危機から救った花咲つぼみではなく、その『妹』の花咲ふたばが「史上最強のプリキュア」なのかといえば、それは花咲ふたばが花咲つぼみの『妹」であるからです。
キュアマリンの来海えりかは「美しい姉」を、キュアサンシャインの明堂院いつきは「(中世的な容姿の)病弱な兄」を、それぞれ『妹』として乗り越える姿が描かれていました。
そのように『ハートキャッチプリキュア』は「姉妹対決」がテーマの作品なのだと思います。
第一話がキュアムーンライト・月影ゆりとダークプリキュアとの同じサバーク博士を父親に持つ「姉妹」による戦いで始まっていたのは、その「姉妹対決」というテーマの縮図として描かれていたからだと思います。
そして「満月」を象徴する姉のキュアムーンライトと「新月」を象徴する妹のダークプリキュアとが「姉妹」でありながらもともと同じひとつの「月」である、という関係性の延長線上に、デューンと無限プリキュアとの関係性があるのだと思います。
全てを破壊し奪いつくす「無」を求めるデューンと「無限」の力と愛を持つ無限プリキュアとは、「無と無限」という意味で、もともと同じところから生まれた「双子の姉妹」のようなものだと言えるのではないでしょうか。
ダークプリキュアはサバーク博士とデューンとの間に生まれた子供という意味で、デューンは「女」として見る事が出来ます。
また「最初に無ありき」でデューンが「姉」です。
そして姉のデューンと妹の無限プリキュアとの「悪と愛との双子の姉妹」のような関係性は『のんちゃんのないしょ』で描かれていた「愛と悪意による物語の二重性」にもつながっているように思います。
姉のデューンと妹の無限プリキュアによる「姉妹対決」はデューンが無限プリキュアに敗れ「妹の勝利」で決着がついていました。
そのように『ハートキャッチプリキュア』は「姉は妹には絶対に勝てない」ことが描かれている物語だと思います。
ただし、それは「萌え」による勝敗です。
『プリキュア』の言葉の意味とは「pretty&cure(プリティ&キュア」の「かわいくていやされる」ことであり、つまり「萌え」です。
『ハートキャッチプリキュア』の世界では「なぐり合い」による「燃え」の勝負よりも、「かわいくていやされる」ことによる「萌え」の方が階層の上位にあるのだと思います。
「だって女の子だもん」という絶対の真理です。
そして『ハートキャッチプリキュア』は「姉は妹には絶対に『萌え』で勝てない」ことが描かれている物語なのだと思います。
「姉妹対決」というテーマの縮図である姉のキュアムーンライトと妹のダークプリキュアとの戦いでは、なぐり合いの「燃え」の勝負ではキュアムーンライトがダークプリキュアを倒していましたが、「父親からの愛」という「萌え」の勝負では姉が妹に敗れていました。
姉のキュアムーンライトは妹のダークプリキュアに「萌え負けた」のです。
そして姉のデューンが妹の無限プリキュアに敗れたのは、無限プリキュアがデューンにくらわせた体に触れるだけの弱々しいパンチによるものではなく、無限プリキュアの「星の瞳」にデューンが「かわいくていやされた=萌えた」ことによって「ハートキャッチ」されたからだと思います。
姉のデューンは妹の無限プリキュアに「萌え負けた」のであり、無限プリキュアは「愛で世界を救った」つまり「可愛さで世界を救った」わけです。
『ハートキャッチプリキュア』は最終話での「妹っていいよね」というセリフが象徴するように、「姉は妹にどうしようもなくハートキャッチされてしまい萌え負ける」ことを描いた物語なのだと思います。
だからこそ花咲つぼみの『妹』である花咲ふたばが「史上最強のプリキュア」なのです。
無限プリキュアとなって「愛で世界を救った」花咲つぼみを「萌え負かす」ことのできる「プリキュア」は、最終話のエピローグで「プリキュア」への変身アイテムを持っていた「プリキュア」の、花咲つぼみの『妹』である花咲ふたばしかいないのです。
花咲ふたばこそが「史上最強のプリキュア」なのです。
そして花咲ふたばを「史上最強のプリキュア」として描いた理由は『おジャ魔女どれみナイショ#12:7人目の魔女見習い〜のんちゃんのないしょ〜』に登場した『世界一不幸な美少女』である和久のぞみの生まれ変わりとして存在させるためである、とそう信じます。
『ハートキャッチプリキュア』は「愛で世界を救う」物語でした。
デューンは無限プリキュアの愛によって救われ、サソリーナ・クモジャキー・コブラージャの三人は『心の花』を取り戻し元の場所に帰ることによって救われ、ダークプリキュアは「父親からの愛」を得たことによって救われ、そこには様々な「救い」が描かれていました。
しかし「dune(デューン)」という「砂丘」の名を持つ者が生み出した「スナッキー達」の「救い」だけは描かれていませんでした。
なぜスナッキー達の救いは描かれていなかったのでしょうか?
そのスナッキー達の救いが描かれていなかったことこそが「救い」であると、そう信じます。
なぜならスナッキー達のフェイスマスクには「幸運」という花言葉を持つ三つ葉の「クローバー」の模様が描かれていたからです。
まさしくその「幸運」こそが『世界一不幸な美少女』である和久のぞみにとって最も足りなかったものでした。
もし花咲ふたばが和久のぞみの生まれ変わりとして描かれているとすれば、スナッキー達の「クローバー」の模様は特別な意味を持ってきます。
「幸運」の花言葉を持つスナッキー達の「クローバー」の模様は、人々の心の中に咲く「心の花」が持つ様々な花言葉を積み重ねてきた『ハートキャッチプリキュア』の物語が全編にわたってつむいできた「和久のぞみの生まれ変わりとしての花咲ふたば」へと集約するための伏線なのではないでしょうか。
最終話のサブタイトルである「みんなの心をひとつに! 私は最強のプリキュア!!」はダブルミーイングになっていて、無限プリキュアの事を指しているのと同時に、「みんな」とは「スナッキー達」のことでもあり、「私」とは「花咲ふたば」のことでもあるのではないでしょうか。
スナッキー達を存在させていたエネルギーは花咲ふたばが「プリキュア」になる為の「力の源」になったのではないでしょうか。
スナッキー達の「救い」とは花咲ふたばが「プリキュア」になる為の「力の源」になることによって与えられたのではないでしょうか。
つまりスナッキー達の「クローバーの心」がひとつになって和久のぞみの生まれ変わりとしての花咲ふたばは 「史上最強のプリキュア・キュアクローバー」になったのではないでしょうか。
そうである、と信じます。
「花咲空」という名前を信じます。
「妹っていいよね」というセリフを信じます。
「クローバー」の花言葉を信じます。
『おジャ魔女どれみ』では「魔女」にはなれなかった「世界一不幸な美少女」である和久のぞみは、『ハートキャッチプリキュア』で花咲ふたばとして生まれ変わり、人々に「幸運」を与える「史上最強のプリキュア・キュアクローバー」になることができたのだと、そう信じます。
「世界一不幸な美少女」は人々に「幸運」を与える存在になったのだと、そう信じます。
和久のぞみという「世界一不幸な美少女」の「心の種」は、花咲空が「そら」と「し」を引き受けた果てにその孫として、花咲つぼみが愛によって世界を砂漠化の危機から救った果てにその『妹』として、両親の愛情によって誕生した「萌え芽」となり、希望を込めて「ふたば」と名付けられ、スナッキー達の「みつば」のクローバーの力を得て、人々に「よつば」の幸運を与える「史上最強のプリキュア・キュアクローバー」として「心の花」を咲かせることができたのだと、そう信じます。
様々な形の「愛」を積み重ねてきた物語の果てに存在する「史上最強のプリキュア・花咲ふたば」が背負う「史上最強の愛」でなければ、和久のぞみという「世界一不幸な美少女」の魂を救うことができなかったのだと、そう信じます。
『ハートキャッチプリキュア』は「愛で世界を救う」物語であり、「史上最強の愛で世界一不幸な美少女を救う」物語でもあるのだと、そう信じるのです。
『ハートキャッチプリキュア』最終話のエピローグで花咲家で「プリキュア」への変身アイテムを持っていた「プリキュア」の女の子は、花咲つぼみの「妹」の花咲ふたばである。
「無限プリキュア」となって愛で世界を救った花咲つぼみではなく、その「妹」の花咲ふたばこそが「史上最強のプリキュア」である。
なぜ花咲ふたばが「プリキュア」なのか?
なぜ花咲ふたばが「史上最強のプリキュア」なのか?
なぜ花咲ふたばが「史上最強のプリキュア」でなければいけないのか?
それは花咲ふたばが『おジャ魔女どれみナイショ#12:7人目の魔女見習い〜のんちゃんのないしょ〜』に登場した「魔女になりたい」という望みを叶えられないまま死んでしまった少女・和久のぞみの生まれ変わりとして描かれているからである。
……と、そう信じます。
断言は出来ません。
ただ信じることしか出来ません。
なぜならその前提として、花咲つぼみ・ふたば姉妹の祖父である「花咲空」という名前が、以前『のんちゃんのないしょ』について書いた文章への作り手からの返信ではないか、ということを踏まえる必要があるからです。
世界一不幸な美少女が奏でるどれみふぁそらしど
http://paraisoinheruno.blog58.fc2.com/blog-entry-6.html
花咲「空」がすでに「死」んでしまっていてチェロを「響」かせて「奏」でていたというだけの、根拠とはとても呼べない弱々しい寄りどころによる前提です。
妄想だと言われても仕方の無い前提です。
電波だと笑われても仕方の無い前提です。
しかし、このブログ宛て、というようなそんな小さな意味ではなく、『おジャ魔女どれみ』と『ハートキャッチプリキュア』の世界をつなげるために「花咲空」という名前が必要だったのだと、そう信じます。
和久のぞみの身代わりに「そら」と「し」を引き受けさせるために「花咲空」という名前が必要だったのだと、そう信じます。
和久のぞみの生まれ変わりとして花咲ふたばを誕生させるために「花咲空」という名前が必要だったのだと、そう信じます。
和久のぞみの生まれ変わりとして花咲ふたばを存在させるために、花咲ふたばの声が和久のぞみと同じ川田妙子さんである必要があったのだと、そう信じます。
『おジャ魔女どれみ』では「魔女」にはなれなかった和久のぞみが『ハートキャッチプリキュア』で花咲ふたばとして「プリキュア」になることができたのだと、そう信じます。
和久のぞみという『世界一不幸な美少女』の魂は花咲ふたばという『史上最強のプリキュア』でしか救うことが出来なかったのだと、そう信じるのです。
なぜ「無限プリキュア」となってデューンの魔の手から世界を砂漠化の危機から救った花咲つぼみではなく、その『妹』の花咲ふたばが「史上最強のプリキュア」なのかといえば、それは花咲ふたばが花咲つぼみの『妹」であるからです。
キュアマリンの来海えりかは「美しい姉」を、キュアサンシャインの明堂院いつきは「(中世的な容姿の)病弱な兄」を、それぞれ『妹』として乗り越える姿が描かれていました。
そのように『ハートキャッチプリキュア』は「姉妹対決」がテーマの作品なのだと思います。
第一話がキュアムーンライト・月影ゆりとダークプリキュアとの同じサバーク博士を父親に持つ「姉妹」による戦いで始まっていたのは、その「姉妹対決」というテーマの縮図として描かれていたからだと思います。
そして「満月」を象徴する姉のキュアムーンライトと「新月」を象徴する妹のダークプリキュアとが「姉妹」でありながらもともと同じひとつの「月」である、という関係性の延長線上に、デューンと無限プリキュアとの関係性があるのだと思います。
全てを破壊し奪いつくす「無」を求めるデューンと「無限」の力と愛を持つ無限プリキュアとは、「無と無限」という意味で、もともと同じところから生まれた「双子の姉妹」のようなものだと言えるのではないでしょうか。
ダークプリキュアはサバーク博士とデューンとの間に生まれた子供という意味で、デューンは「女」として見る事が出来ます。
また「最初に無ありき」でデューンが「姉」です。
そして姉のデューンと妹の無限プリキュアとの「悪と愛との双子の姉妹」のような関係性は『のんちゃんのないしょ』で描かれていた「愛と悪意による物語の二重性」にもつながっているように思います。
姉のデューンと妹の無限プリキュアによる「姉妹対決」はデューンが無限プリキュアに敗れ「妹の勝利」で決着がついていました。
そのように『ハートキャッチプリキュア』は「姉は妹には絶対に勝てない」ことが描かれている物語だと思います。
ただし、それは「萌え」による勝敗です。
『プリキュア』の言葉の意味とは「pretty&cure(プリティ&キュア」の「かわいくていやされる」ことであり、つまり「萌え」です。
『ハートキャッチプリキュア』の世界では「なぐり合い」による「燃え」の勝負よりも、「かわいくていやされる」ことによる「萌え」の方が階層の上位にあるのだと思います。
「だって女の子だもん」という絶対の真理です。
そして『ハートキャッチプリキュア』は「姉は妹には絶対に『萌え』で勝てない」ことが描かれている物語なのだと思います。
「姉妹対決」というテーマの縮図である姉のキュアムーンライトと妹のダークプリキュアとの戦いでは、なぐり合いの「燃え」の勝負ではキュアムーンライトがダークプリキュアを倒していましたが、「父親からの愛」という「萌え」の勝負では姉が妹に敗れていました。
姉のキュアムーンライトは妹のダークプリキュアに「萌え負けた」のです。
そして姉のデューンが妹の無限プリキュアに敗れたのは、無限プリキュアがデューンにくらわせた体に触れるだけの弱々しいパンチによるものではなく、無限プリキュアの「星の瞳」にデューンが「かわいくていやされた=萌えた」ことによって「ハートキャッチ」されたからだと思います。
姉のデューンは妹の無限プリキュアに「萌え負けた」のであり、無限プリキュアは「愛で世界を救った」つまり「可愛さで世界を救った」わけです。
『ハートキャッチプリキュア』は最終話での「妹っていいよね」というセリフが象徴するように、「姉は妹にどうしようもなくハートキャッチされてしまい萌え負ける」ことを描いた物語なのだと思います。
だからこそ花咲つぼみの『妹』である花咲ふたばが「史上最強のプリキュア」なのです。
無限プリキュアとなって「愛で世界を救った」花咲つぼみを「萌え負かす」ことのできる「プリキュア」は、最終話のエピローグで「プリキュア」への変身アイテムを持っていた「プリキュア」の、花咲つぼみの『妹』である花咲ふたばしかいないのです。
花咲ふたばこそが「史上最強のプリキュア」なのです。
そして花咲ふたばを「史上最強のプリキュア」として描いた理由は『おジャ魔女どれみナイショ#12:7人目の魔女見習い〜のんちゃんのないしょ〜』に登場した『世界一不幸な美少女』である和久のぞみの生まれ変わりとして存在させるためである、とそう信じます。
『ハートキャッチプリキュア』は「愛で世界を救う」物語でした。
デューンは無限プリキュアの愛によって救われ、サソリーナ・クモジャキー・コブラージャの三人は『心の花』を取り戻し元の場所に帰ることによって救われ、ダークプリキュアは「父親からの愛」を得たことによって救われ、そこには様々な「救い」が描かれていました。
しかし「dune(デューン)」という「砂丘」の名を持つ者が生み出した「スナッキー達」の「救い」だけは描かれていませんでした。
なぜスナッキー達の救いは描かれていなかったのでしょうか?
そのスナッキー達の救いが描かれていなかったことこそが「救い」であると、そう信じます。
なぜならスナッキー達のフェイスマスクには「幸運」という花言葉を持つ三つ葉の「クローバー」の模様が描かれていたからです。
まさしくその「幸運」こそが『世界一不幸な美少女』である和久のぞみにとって最も足りなかったものでした。
もし花咲ふたばが和久のぞみの生まれ変わりとして描かれているとすれば、スナッキー達の「クローバー」の模様は特別な意味を持ってきます。
「幸運」の花言葉を持つスナッキー達の「クローバー」の模様は、人々の心の中に咲く「心の花」が持つ様々な花言葉を積み重ねてきた『ハートキャッチプリキュア』の物語が全編にわたってつむいできた「和久のぞみの生まれ変わりとしての花咲ふたば」へと集約するための伏線なのではないでしょうか。
最終話のサブタイトルである「みんなの心をひとつに! 私は最強のプリキュア!!」はダブルミーイングになっていて、無限プリキュアの事を指しているのと同時に、「みんな」とは「スナッキー達」のことでもあり、「私」とは「花咲ふたば」のことでもあるのではないでしょうか。
スナッキー達を存在させていたエネルギーは花咲ふたばが「プリキュア」になる為の「力の源」になったのではないでしょうか。
スナッキー達の「救い」とは花咲ふたばが「プリキュア」になる為の「力の源」になることによって与えられたのではないでしょうか。
つまりスナッキー達の「クローバーの心」がひとつになって和久のぞみの生まれ変わりとしての花咲ふたばは 「史上最強のプリキュア・キュアクローバー」になったのではないでしょうか。
そうである、と信じます。
「花咲空」という名前を信じます。
「妹っていいよね」というセリフを信じます。
「クローバー」の花言葉を信じます。
『おジャ魔女どれみ』では「魔女」にはなれなかった「世界一不幸な美少女」である和久のぞみは、『ハートキャッチプリキュア』で花咲ふたばとして生まれ変わり、人々に「幸運」を与える「史上最強のプリキュア・キュアクローバー」になることができたのだと、そう信じます。
「世界一不幸な美少女」は人々に「幸運」を与える存在になったのだと、そう信じます。
和久のぞみという「世界一不幸な美少女」の「心の種」は、花咲空が「そら」と「し」を引き受けた果てにその孫として、花咲つぼみが愛によって世界を砂漠化の危機から救った果てにその『妹』として、両親の愛情によって誕生した「萌え芽」となり、希望を込めて「ふたば」と名付けられ、スナッキー達の「みつば」のクローバーの力を得て、人々に「よつば」の幸運を与える「史上最強のプリキュア・キュアクローバー」として「心の花」を咲かせることができたのだと、そう信じます。
様々な形の「愛」を積み重ねてきた物語の果てに存在する「史上最強のプリキュア・花咲ふたば」が背負う「史上最強の愛」でなければ、和久のぞみという「世界一不幸な美少女」の魂を救うことができなかったのだと、そう信じます。
『ハートキャッチプリキュア』は「愛で世界を救う」物語であり、「史上最強の愛で世界一不幸な美少女を救う」物語でもあるのだと、そう信じるのです。
涼宮ハルヒの憂鬱 笹の葉ラプソディ 〜待ち人や カササギとして ここにいる〜
中学一年生時の涼宮ハルヒや大人バージョンの朝比奈みくるが絵的な容姿にしても、(声優のある種の記号としての演技による)声の音程にしても、成長度合いの違いによって「今」と比べて変化しているのに対して、長門有希は「今」も「三年前」もまったく変化がないということ……そんなふうに『笹の葉ラプソディ』のアニメ版は、原作の小説よりも長門有希の「変わらなさ」というものがより強調されているように思います。
それは『笹の葉ラプソディ』での長門有希の初ゼリフが「三年前」における短冊の文字を指でなぞった後の「理解した」であるということにも表われていて、そのBパートの中盤での第一声は長門有希が生まれて初めて言葉を発した「産声」としての演出意図なのではないでしょうか。
長門有希は生まれたときからずっと変わらない存在であることの強調です。
だからこそ、「三年前」の長門有希が長門有希であることを証明するためにキョンに対して眼鏡を外してみせたことの意味の重みを強く感じます。
「三年後」の長門有希がキョンによって変わったことの証明。
「三年後」の長門有希がキョンによって変えさせられたことの証明。
眼鏡を外す、というキョンにしかわからない自己証明の行為に長門有希のいろんな思いが込められているように思うと切なくなってきます。
そして「三年後」に変わったことといえば、長門有希がキョンに対して改めて手渡した短冊に対しても言えます。
その短冊が「三年前」とは違い少しだけくたびれていたのは、長門有希が三年間ずっと肌身離さずに持ち続けていたことによる変化なのではないでしょうか。
短冊に書かれてある文字の「私はここにいる」という思いと共にずっと持ち続けていたことによる変化であると……。
それは『笹の葉ラプソディ』での長門有希の初ゼリフが「三年前」における短冊の文字を指でなぞった後の「理解した」であるということにも表われていて、そのBパートの中盤での第一声は長門有希が生まれて初めて言葉を発した「産声」としての演出意図なのではないでしょうか。
長門有希は生まれたときからずっと変わらない存在であることの強調です。
だからこそ、「三年前」の長門有希が長門有希であることを証明するためにキョンに対して眼鏡を外してみせたことの意味の重みを強く感じます。
「三年後」の長門有希がキョンによって変わったことの証明。
「三年後」の長門有希がキョンによって変えさせられたことの証明。
眼鏡を外す、というキョンにしかわからない自己証明の行為に長門有希のいろんな思いが込められているように思うと切なくなってきます。
そして「三年後」に変わったことといえば、長門有希がキョンに対して改めて手渡した短冊に対しても言えます。
その短冊が「三年前」とは違い少しだけくたびれていたのは、長門有希が三年間ずっと肌身離さずに持ち続けていたことによる変化なのではないでしょうか。
短冊に書かれてある文字の「私はここにいる」という思いと共にずっと持ち続けていたことによる変化であると……。